八坂神社(名古屋市西区)は、氏子から「子供の守り神様」としても尊拝されています。 しかし、いつの時代から、どのようにして「子供の守り神」神事が発祥したのか? この謎を解く神社が、遠く離れた四国・香川県三豊市多度津町の海岸線。瀬戸内の海上に浮かぶ小島にありました。 その名は「津嶋神社」江戸時代から子供の健康と成長の守り神として信仰が厚く、日本全国から参拝者が多く訪れている。

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津嶋神社の由縁には今から420年ほど前、文禄年間(1593~1596)6月から8月にかけて、この浦に女のうたう声が聞こえていたとのことです。その声を村人は怪しみ何度も探してみましたが何も見当たりません。 
そこで巫女に託してみると「我は海中に住む神。名は嶋津神という。今よりこの島に祀るべし。祠など造る必要は無い。何よりまず、木を植えるべし。それが我が神体なり。さすれば、村の子供、牛馬を病から守るなり。」という御神託がありました。
里の人たちは早速、木を植え鳥居をたてて島に祀れば、その後 疫病が大流行しても村の子供・牛馬は守られたと伝えられています。

近年は農作業の機械化に伴い牛の飼育農家も減り、赤いのぼりを立てた風景はすっかり姿を消してしまいましたが、のぼりを模したお守りは、今も地元の人々をはじめ多くの信仰を集めています。

宝永3年(1706)に本殿を造営した津嶋神社ですが、浮世絵師二代目安藤広重は緑樹に覆われ穏やかな瀬戸内海に映えるこの島のさまに感動して、景勝「津嶋さん」を幕末に描きました。 これによって全国に津嶋神社が一躍有名になります。

大正時代になると「こどもの守り神」として、地元の住民を中心とした厚い信仰を集めるようになり、その厚い信仰は徐々に全国へ広がっていきました。

当然、尾張地方にも伝わっていたと考えられます。八坂神社においても例大祭の長寿延命、豊作祈願に加え「子供の守り神様」の神事が加えられたのではないでしょうか・・・・・

八坂神社(明治元年の神仏分離令までは天王社)の御祭神と祭事

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御祭神

   御本社     祭神    建速須佐之男命 

   御末社 神明社 祭神    天照大神

   御末社 秋葉社 祭神    火具土大神

   御末社 祖霊社 祭神    氏子戦死戦没社 
                及び 特別功労者命

祭 事

     1月   元旦祭       
        左義長祭
   2月   厄除け祈願祭
   4月   春祭
        祖霊祭
   5月   例大祭(提灯まつり) 
   9月   湯立祭
  10月   神明祭
  11月   秋祭り
        秋葉祭
  12月   大祓い祭 
        除夜祭
 
5月例大祭(提灯まつり)の祭礼は、長寿延命と豊作祈願でありますが、特に子供の守り神様への神事としても有名です。

「子供の守り神様」神事の発祥は、「八坂神社の歴史をたどる その5」に記載予定
 

「天王社」から「八坂神社」へ

江戸時代の「尾府全図~尾張名所図絵~」に現・八坂神社の場所は「天王」と明記されており、天王社であったことは間違いない。尾府全図には名古屋城の亀尾天王社も地図上は「天王」とのみ記載されており、名所図絵に取上げられない小さな天王社に「〇〇天王社」と名前が付けられていたかは定かではありません。

付いていれば土地の名前が一般的と思われ、江戸期の村落名称を調べてみました。
尾張藩 栄村(さこむら)1309石4斗3升7合 との記載があり、尾張全図の天王社がある美濃路街区の下にも栄村と記されています。 

また栄村については次なる資料「名古屋の地名とその由来」も見つけました。   
庄内川近くの栄生(中村区、西区)は本来「サコ」・・・「砂処」「砂子」などだったであろうが、めでたい「栄(さこ)」の字が当てられた。いまは「栄生」と書くようになっている(江戸時代は「栄村」だった)。 その栄村の前(南)にあったのが佐古前(中村区)であり、栄村の支村が栄出(八坂町になり、現在は西区名西)である。                                    

しかし、栄村から外れた支村の名前を街道筋に造営・遷社した天王社に冠するとも思えず、地域の氏神としての「天王社」としておきます。

栄村の支村「栄出(さこで)」が、八坂町になっていった変遷。
明治4年(1871)、廃藩置県により尾張藩は名古屋県となったが、翌年名古屋城下の所在する郡の名を採って愛知県と改称された。 明治11年(1878)郡区町村編成法により愛知県の中に名古屋区が発足。栄村の一部が「八坂町」として名古屋区にとりこまれる。そして明治22年(1889)に従来の名古屋区域をもって名古屋市設置になりました。

ここで少し疑問が・・・・何故 「八坂町」と名付けられたか? そこに地域氏神「天王社」の名称変更が絡んできます。
明治元年(1868)の神仏分離令により神社での仏式の行事が禁止され、また、祭神の名や社名に「牛頭天王」「祇園」のような仏教語を使用することが禁止されたことから、祇園社・牛頭天王社は「スサノオ」を祀る神社となり、社名を改称した。
祇園信仰の総本社である京都の祇園社は、鎮座地の地名・八坂郷から「八坂神社」とされた。その他の神社では京都にならった八坂神社のほか、祭神の名前から素戔嗚神社・素戔嗚社、また地名を冠したものや牛頭天王を祀る以前の旧社名などに改称した。

当地方では、津島牛頭天王社が「津島神社」に、亀尾天王社が「那古野神社」に改称されている。 東海地方では祇園信仰の中でも津島牛頭天王社から分霊された数千の
天王社が津島信仰をなしており、神社名を決めるのは氏子の大きな問題になったと思われます。 そして此の地の氏神「天王社」は京都「祇園社」の改称と同じく「八坂神社」への改称を選択しました。 明治元年、八坂神社への改称が町内氏子の結束をより強くし、明治11年に栄村の栄出から「八坂町」へ名前を変え、名古屋区への加入に繋がったと思えます。

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